早いもので、昨年8月の還暦記念同窓会から早くも9か月近くになろうとしている。(あの時複数の方に、このウェブサイト用に原稿を書くように依頼されて軽い気持ちで引き受けたのですが、結果的にこんなに時間が経ってしまって大変申し訳なく思っています。。

還暦を過ぎた今、これまでを振り返ってみると、本当に寄り道ばかりで一貫性の無い、ある意味行き当たりばったりな人生だったと感じる。

高校時代、古文はかなり苦手だったのだが、吉田兼好の徒然草の中に、
「万(よろず)に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。
(何につけても、その道をよく知っている者-その道に慣れて精通している者-は、素晴らしいものである。)」
という一文があったのが妙に心に残っていて、それ以来「何かの専門家、エキスパートになってその道を極めたい」というのが、人生の漠然とした目標となった要因のひとつとなったように思う。が、結果的に、「あちこちいろいろな分野に広く浅く足を突っ込み、どれも中途半端」なままで現在に至っている。

高校時代は、広い世界を見て英語の勉強もしたいと、3年の夏にロータリーの交換留学生としてアメリカに渡り、1年後に帰国。それまでは医学部に行くつもりで理系のE組だったのだが、数学や物理、化学などの理科系科目は留学中にすっかり忘れてしまい、受験まで半年しか無く、迷った結果、秋高の先生に志望を文系に変更をお願いし、1年下のB組に入らせていただいた。思えば、これが私の迷走人生の始まりであった。

英語以外にも外国語を習得し、何か国際社会と関わる仕事がしたいということで、アメリカ留学中に知り合ったブラジル人たちがとても楽しい人達だったこと、サンバやボサノバなどのブラジル音楽が好きだったこと、70年代半ばはブラジルをはじめとする南米の経済発展は目覚ましく、さらに日本との関係が強化されるだろうと言われていたため、上智大学のポルトガル語学科を選んだ。が、4年間を通じてあまり真面目に勉強しなかったため、ビジネスに通用するレベルのポルトガル語は身に付かず、奇跡的なブラジルの経済発展は終わりを告げ、ポルトガル語を使えるような就職先も無かった。折しも、第二次オイルショックの直後で、大卒女子の就職は土砂降りと言われた年だった。

そこで再び方向転換。子供のころから大好きだった音楽(特に洋楽のロックやポップス)に関わる仕事をしようと、レコード会社のCBSソニー(現在はソニーミュージック)に入社。マイケルジャクソン、ワム!、シンディ・ローパー、シャーデー、ノーランズ、フリオ・イグレシアスなどをはじめとする多くの洋楽アーティストの企画制作部(広報・宣伝)の部署で仕事をした。昼夜を問わず、アーティスト来日の際はTVやラジオ出演のため夜中過ぎの仕事も珍しくない仕事だったが、好きな音楽に関わる毎日は刺激に満ち、楽しく充実していた。が、だんだん慣れてくると、「売れればどんな音楽でもOK」的な業界の雰囲気に違和感を覚えてきた。自分では全く良いと思えない、芸術的・文化的価値も無い、低俗で、音楽と呼ぶに値しないようなものでも、売れそうなものは宣伝して回らなければならないことに苦痛を覚えるようになった。6年勤務したころ、持病の先天性股関節形成不全による炎症がひどくなり、歩行が困難に。走り回ることが多かったこの仕事をやめる決心がついた。
整形外科医からは手術を勧められたが、できたらそれは回避したいと1年ほど静養し、秋田の山奥の温泉でしばらくの湯治に出かけたり、整体やマッサージなどでかなり回復した。(この後、この持病は10年周期で何度か悪化したのだが、そのたびに代替療法で何とか対応、手術なしに現在に至っている。)

その後、仕事を再開する前に、もう一度海外で英語のブラッシュアップのための勉強をしたいと思い、オーストラリアを選んだ。オージーの友人や、CBSソニーで一緒に仕事をしたオージーのアーティストたち(Men at Work、Midnight Oilなど)が、素朴で親切なナイスガイたちだったこと、物価が安く、気候が良さそうなことなど、また安易な理由だった。

そんなわけで、30歳でシドニーの外国人向け英語学校に通いだしたのだが、たまたまニューサウスウェールズ大学がオープンキャンパスをやっており、軽い気分で行ってみた。色々な学部が生徒募集をしていた中、社会学部長の優しそうな女性教授と話をしたところ、社会学部卒業ではなくとも、大学院生として入学OKと言ってくれた。カリキュラムを見ると、Media Studiesという科目もある。そのころ、漠然とジャーナリスティックな仕事がしたいと思っていた私はあまり深く考えずに申し込むことにした。留学生向けの英語のテストを受け、上智の卒業証明書・成績証明書を提出し、学費はかなり政府から補助金が出て格安で入れて喜んだのもつかの間、ある意味地獄のように大変な日々の始まりに。

何しろ社会学といえば、上智では一般教養でやったくらいだが、マルクスやウェーバーをはじめ、そのころの私にとっては難解な、多くの文献を読んで理解しなければならない。アカデミックなレベルの英語についていくのも大変で、しかもオージー英語は聞き取るのが半端なく難しい。また、ディスカッションで積極的に発言しないと授業に出ているとは認められない。先生が話すのを黙って聞き、ノートをとる形式の日本の授業に慣れている身としては、自分の意見を論理的に表現する習慣も、議論に参加できるほどの英語力も無く、毎日ストレスがたまった。小論文の提出も頻繁にあり、膨大な参考文献を読むため、決して勉強好きではない人間なのに、辞書を片手に図書館に籠る日々。電子辞書もパソコンもインターネットも無い時代、エッセイは手書きかタイプライターだった。 その後、修士論文に取り掛かるころには日本からワープロを持参し、やっと文章を機械で編集できるようになり、さらにはアップルがマックを発売してくれたおかげでかなり効率が上がって助かった。指導教授があきらめずに叱咤激励してくださったおかげで何とか修士論文「日本の海外投資とメディアの報道」も完成。バブルのピークと崩壊を経験していた日本は、オーストラリアでも何かとメディアで取り上げられない日は無く、アメリカで吹き荒れていたジャパン・バッシング的な報道も多かった。根拠のない悪意に満ちた内容と、無条件に日本を礼賛するものが混在しており、その背景を調べ、分析したものだった。(この時の経験から、その後はいつもメディアの報道を鵜吞みにできず、何故、誰が、何の意図でどんなバイアス報道を仕掛けているかを探る癖がついた。特に近年の日本のメディアは残念なことになっていて、世界で日本の報道の自由度は70位以下とされるのも納得だ。)

学生生活の傍ら、通訳や翻訳、新聞社支局のアシスタント、メディア取材のコーディネーターなどのアルバイトに精を出していたこともあり、学業は2年で終わる予定が、倍の時間をかけてやっと卒業。このころはシドニーでの生活がすっかり気に入ってしまい、帰国せずに現地で出版社に就職。日本向けの観光ガイドブックや駐在員向けのゴルフ雑誌などを作った。この時、大手の広告主だったキャノンオーストラリアに赴任していたのが、今の主人である。

出版社と言っても、もともと希望していたジャーナリズムとはかなり違う内容だったこと、個人的にゴルフにハマっていたことなどから、シドニー近郊のリゾート地にゴルフ場を所有する日系の会社に転職、マーケティングと広報のマネージャーとなった。その後、松下興産(MID Sydney)に転職。チフリータワーという、シドニー中心街の高層複合ビルの日本企業テナントとの顧客リレーション係、テナント対象のコーポレートゴルフのコンペの企画&運営、さらには松下興産所有のゴールドコーストのリゾートのゴルフイベント運営や広報に関わった。オーストラリアン・レディース・マスターズという、LPGAのツアーでは、福島晁子、不動ゆり、東尾理子などをはじめとする日本人選手数十名を招待し、当時の日本LPGAの樋口久子会長ともお仕事させていただく機会があった。

非常に多忙ながらも充実した日々で、オーストラリアの永住権申請の手続きも始めていたのだが、パリに異動になった主人と結婚することになり、後ろ髪を引かれながら退職したのがシドニーオリンピック直後の2000年末。またもや人生のターニングポイントを迎えたのは43歳だった。パリに引っ越し、初めて専業主婦という経験をしたのだが、これがアイデンティティー喪失感半端なく。駐在員の妻は仕事が認められないということで仕方なく、フランス語でも習おうかと、はじめは日本人会の奥様向けクラスや近くの私立学校に行っていたが、半年後からソルボンヌ大学の外国人向けクラスに通うことにした。これがまた、楽しくも悪夢のような日々の始まりであった。周りはほとんど20代の外国人。毎日大量の宿題とテストに悲鳴を上げながら、フランス語と格闘する日々。が、このおかげで、はじめは全くチンプンカンプンだったフランス語も、少しは読んだり聞いたりして理解できるようになり、日常の簡単な会話も多少は出来るようになった。はるか昔に学んですっかり忘れていたポルトガル語も、同じラテン語の語源で共通点も多く、フランス語習得の助けになった。大学で専攻したポルトガル語が、卒業後20年経って、ほぼ初めて役に立ったと感じた。

初級と中級のクラスに10ヶ月通い、やっとフランス語の勉強が楽しくなってきた頃、主人の帰国命令が。まだまだ中途半端なレベルなのでもう少し続けたかったが、2002年に帰国。15年ぶりの日本の生活が始まった。

帰国後は、まさに浦島太郎の気分であった。電車の乗り方が良く分からない。テレビでお笑いをやっていても、何が可笑しいのかわからない。(笑いのツボが全くずれてしまっていた) 芸能人やテレビの人気ドラマの話題には全くついていけない。満員電車や人混みが恐怖。東京湾ナイトクルーズで、きれいな橋を見つけ、「あれは何という橋か?」と聞き、友人たちをのけぞらせた。(レインボーブリッジであった。。。こんなことも知らない身、ほぼ外国人観光客と同じレベルで接しなければならない日本の友人たちはさぞかし大変だったことだろう。。。)
こんな調子なので、日本での社会復帰は無理、しばらくリハビリが必要だった。ここでまた自己アイデンティティーの喪失を経験。とりあえずは、友人から頼まれる翻訳や通訳の仕事をちょこちょこやるくらいで、私は人生の後半、一体これから何をしようかと、再び模索が始まる。

すでに40代も半ばを過ぎていた私は、これからは自分が本当に好きなことをやりたいし、それは何かと真剣に考えた結果、最も好きで、興味があるのは「食べることと飲むこと」だという結論に行きついた。中でも好きなのは、飲んでいて人生をとても豊かで幸せにしてくれる、ワインと日本酒。とりあえずは、オーストラリアやフランスで日常的に楽しんでいたワインをちゃんと勉強してみようかと、ワインスクールに通い始めた。これが、またもや人生を変える転換期となった。そして、再び勉強漬けの日々が始まるとは、この時は予想もしていなかった。

ワインを本格的に勉強する大きなきっかけになったのは、NY在住のお客様からお土産でいただいたカリフォルニアワインだった。オーストラリアとフランスのワインしか知らなかった主人と私は、パリの自宅で夕食の焼き肉とともにこのワインを開けてみたところ、その予期せぬ美味しさに驚いた。二人で30分くらいでするする1本開けてしまったのだが、あまりにエレガントな素晴らしいワインなので後で調べたところ、Opus Oneという、その当時1本数万円するナパのワインだということを初めて知った。これでは、お土産に持ってきてくださったお客様に対しても、ワインの造り手に対しても、あまりに失礼で恥ずかしいと反省したのが、ワインの勉強を始めた理由の一つである。(Opus Oneの造り手とはその後、東京やボルドーなど、あちこちで偶然お会いする機会が何度もあった。何か運命的で不思議なご縁だと感じる。)

「ワインの勉強というと、いったい何をやるのか?赤と白の違いとか、サービスの温度とか?」と、よく聞かれるが、これが半端なく奥深いものなのだと知ったのは、スクールに通い始めてしばらくしてから。 (最近はグルジア/ジョージアが8000年前のワイン発祥の地という説が有力とされているが)、メソポタミア文明以来のワインの歴史、世界各国で生産されているワインの種類(数百種類のブドウ品種名、赤、白、泡、甘口、辛口、キャラクター、等)、特色あるワインを生み出す生産地の名称、地理的条件(気候、高度、土壌等)や、四季を通じた栽培方法(農学)、醸造方法(醸造学、化学)、重要な生産者名、マーケティング、レストランでのサービス、ワインとチーズや料理との組み合わせ、産地の言語(特にフランス語、英語、イタリア語、スペイン語など)など、様々な学問を広くカバーした内容を覚えなければならない。ワインの勉強というと、「どうせたくさん飲んで酔っ払ってるだけだろう」と思われることも(というか、その方が圧倒的に)多いのだが、やればやるほどまだまだ知らないことが多いと感じ、泥沼のようにはまってしまう人が全世界に何十万人もいるのである。そのうちの多くは生産者や輸入業者、ソムリエなどのワイン業界のプロになるが、愛好家としてその道を極める人も少なくない。たかがワイン、されどワインなのである。(いわゆるオタクの世界のひとつという見方も間違っていない。)

また、ワインに取り組むことのメリットとしては、五感(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)をフルに研ぎ澄ますこと(時には第六感も?)、記憶力、分析力、洞察力の訓練になり、ボケ防止に一役買う(かもしれない?)ことがある。ワインのHealth Benefitに関してはいろいろ言われているが、白ワインの殺菌作用、赤ワインの抗酸化作用など、特にアンチエイジングに効果的というデータもあるのは、特に我々シニア世代にとっては、堂々と勉強する(という理由をつけて飲む)ための正当化ができてありがたい。

ワインの資格はいろいろあり、勉強を始めてから15年ほどの間に、日本ソムリエ協会のシニアワインエキスパート、イギリスのWSET(Wine and Spirit Education Trust)のLevel3 (Advanced Certificate)、アメリカのSWE(Society of Wine Educators)のCertified Wine Educator、スペインのCertified Sherry Educatorなどを取得した。この中でWSETはロンドンに本部があり、各国にスクールがあるワイン教育の世界標準と言われていて、Level 1から、Level 4 (Diploma)と言われる資格がある。Diplomaは大学で言えば修士課程みたいなもので、取得しなければならないUnitが1から6まであり、それぞれ理論とテイスティングの試験やレポートがある。最低2年はかかると言われて始めたのだが、これがまた、泥沼の始まりだった。かなり大変なので途中で挫折したが、6,7年のインターバルを経て、やはり始めたものは最後までやろうと再開。3年前にあと一つのUnitを残す段階まで来たのだが、最後が未だにクリアできない。飲むことは大好きでも基本的に勉強が苦手な私は、どうもエンジンがかからず、一体卒業できる日が来るのか?という現状である。

Diplomaの上にMaster of Wineという、これもロンドンに本部のある世界最高峰のワインの資格があり、初めて最低3年はかかっても取得は極めて厳しく、最終合格率は5%以下といわれている。世界では現在300人余り、日本在住の日本人は一昨年やっと一人合格した。私はもし今よりも勉強好きな人間に生まれ変われたら、出来たら来世で挑戦したいと思っている(?)

もちろん楽しいことも多く、ワインセミナーや試飲会、ワイン会を通して、ワインの楽しさ、美味しさを多くの人達と共有できるのは喜びだ。世界各地のワイナリーを訪問して生産者の話を聞いたり、ワインコンクールで審査員をしたり、各国のソムリエやワインジャーナリストといったプロたちのワイン談義に耳を傾けたり。音楽でもワインでも、世界の頂点を極めた人達は、天性の才能もあるだろうが、本当に尊敬に値する努力家で、つい怠けがちな自分にとっては大変な刺激になる。

私は日本酒も大好きで、特に秋田は全国でも群を抜いた品質と美味しさを誇る日本酒メーカーがひしめいているのが嬉しく、秋田県人として誇らしく思う。(先日も秋田高校の同窓生の平川氏に、高清水の酒蔵を見学させていただき、この時ご一緒した、経済評論家の岩本沙弓教授も大きな感銘を受けていらした。平川社長、その節は本当にありがとうございました。秋田高校のつながりはありがたいですね!)。

世界のワインのプロや愛好家の間では、この数年日本酒の人気がうなぎのぼりで、WSETや日本ソムリエ協会もさらなる日本酒の普及を視野に、多くの日本酒の専門家を育てるべく、資格試験に力を入れている。私もできることならワインと共に、これからは日本酒も勉強し、その美味しさ、楽しみ方を多くの人々に伝えていければ嬉しいと思っている。

そんなわけで、高校の時に漠然と描いた「何かの専門家になる」という目標を、あちこち寄り道しながら、未だに追いかけている自分がいる。昔からのんびりした性格と言われていたが、まさか還暦を過ぎてまでやっているとは。そして、紆余曲折の末に、人生の目標として最終的に到達した専門分野がよりによってアルコール飲料だとは。高校時代は我ながら想像もしていなかったが、ただの酔っ払いにならないよう(はたからはそう見えるかもしれないが。。。)精進は続けて行きたい。(亡くなった父は、私が医学部志望を変更した時かなりがっかりしていたが、何よりアルコールが好きな人だった。DNAのなせる技かとも思うが、彼は喜んでいるか、あきれているか、どちらだろうか?)

このように、ここに至るまでの私の人生は、その時々で悪戦苦闘しながらも、何でも好き勝手なことをやってこられたのは幸運だったし、理解ある(放っておいてくれた?)家族のおかげでもあると感謝している。

*以下、業務連絡&宣伝です。

ワインや日本酒好きの皆様へ~

自宅のある川崎市溝の口のサロンや都心のレストランやワインバーで、時には秋田に帰省中ワインとお食事の会を催しています。秋田高校のお客様も数名いて、同窓会仲間だけで集まったこともあります。またの機会に、ご都合良い方は是非ご参加ください。

また、日本ソムリエ協会のワイン検定講師もしています。次は6月28日、ブロンズクラスです。ご興味ある方はこちらをご参照ください。
https://www.winekentei.com/

 

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田崎日本ソムリエ協会会長と撮影

 

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セルジオ越後氏のトークショーとワイン会開催

 

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高清水を見学したときの記念撮影(平川社長と)